突然ですが
ホトトギス

3.バンド遍歴〜初バンド結成


僕のギター・バンド遍歴は今から20年以上前の小学校1年生までさかのぼる。
小学校1年生の冬、僕はお年玉でギターを買った。当時1万2000円の、TVジョッキーを思わせるような白いフォークギターだった。
隣に住んでいた大学生のお兄さんがギターを持っているのを見て、自分も欲しいと親にせがんだのだ。
そのお兄さんは「じゃあギターを教えてあげるよ」と言っておきながら、僕がギターを買った1週間後にどこかへ引っ越してしまったのだ。
公務員で酒好きの父、料理だけは上手な母、体重が僕の2倍の兄。うちにはギターを教えられる人間はいなかった。
その後白いギターは何本か僕に弦を切られた後、物置きの奥で長い冬眠に入った。

中学生になり、ギタークラブに入った。クラブの顧問が僕の好きな先生だったのが理由で、その時点で昔ギターを買ったことなどすでに忘れていた。
顧問は久川先生という理科の講師で、見た目は当時新日本プロレスで「前座の力道山」と言われた人気選手の荒川真にそっくりで、背は低くがっちりとした体格に、厳つい顔の持ち主。
久川先生がギターを弾くと、その風貌とはまるで掛け離れた、繊細で優しいメロディを奏でるのだった。
すっかり先生に惚れ込んだ僕は3年間ともギタークラブに入り、久川先生を師と仰いだ。
このギタークラブはそもそも他の生徒にとっては、他にやりたいクラブが見つからず、遊びながら時間が潰せる楽なクラブとして集まって来る人がほとんどだった。
みんなは音楽室の後方でギターも持たず雑談している中、ただ一人僕は前にあるピアノの脇で先生と向かい合いギターを弾いていた。
ふと家にギターがあることを思い出し、物置から少々黄ばんでしまった白いギターを出して、家でも練習した。
ネックが少し反ってしまって弦高が高くなってしまっていたため押さえにくくなっていたが、意地で押さえ鉄弦が指に食い込み痛かった。
冬場は特に辛かったが、指先にタコが出来はじめるとだんだん押さえるのも楽になってきた。

そして高校生になり、初のバンド結成となる。
高校一年生の秋、同じクラスでひときわ声のでかい石垣という男が「一緒にバンドをやろうぜ」と言ってきた。
この石垣という男はクラスでも特に変わり者で、学校を無断で3日も休んだかと思えば、次に現れた時にはボウズ頭だった。
そして
「ちょつと家出していたんだよね」
などと平然と答えるのだ。聞くと家出中、深夜に学校の武道場に忍び込み、畳の上で柔道の前回り受け身をしている所を先生に見つかり、取り押さえられたのだという。
ボウズ頭は学校からの処分だった。
クラスではこの石垣を筆頭に小野田、北川、磯貝、榊原、野村、花井、鈴木、奥川、そして僕で「花井組」というのを結成していた。
文化祭すらない、クソがつく程に真面目で融通の利かない学校の体制を変えてやるんだ、と訴えていた。
といってもやることといえば、放課後教室に残っては単にみんなで歌って大騒ぎするだけの集まりだった。
この「花井組」はバンドではなく、棒で机をたたきリズムを刻んで、それに合わせみんなで大合唱するというものだ。
「のりたまの歌」「一休さんの歌」などウチワ受けの歌ばかりを歌っていたのだ。
「花井組」の名前の由来は、クラスの中で一番おとなしく口数の少ない花井を組長に仕立て上げたためで、それ以上に深い意味はない。
授業と授業の間の休み時間には、他のクラスに飛び込んで騒いだ。
そんな花井組は人気を呼び、ギグ(放課後の集まりをこう呼んだ)には他のクラスからもたくさんの男女が集まった。
その石垣はギターが上手く、以前から学校外でバンド活動をやっている事は僕も知っていた。
お互い音楽の話をよくしていて、僕がギターをやっている事も彼はよく知っている。
当然ギターの事かと思っていたら、次の一言に思わず肩すかしを食らった。
「みつる、ドラムやってくれ」
「おぅ任せろ、ヨユーだぜ」
必死に冷静を装いながらミエをきった。
おそらく石垣は他にドラマーが見つからず、一番頼みやすい僕にお願いしてきたのだろう。
しかし僕はドラムスティックすら触った事もない初心者だった。急いで楽器屋に行き、一番安いドラムスティックを買った。
ドラムセットは持ってないしスタジオを借りるお金もなかったので、勉強机のまわりに少年ジャンプを並べて、それをスネア・タム・シンバルに見立てた簡易ドラムで練習した。
ヴォーカルとギターは石垣、サイドギターに谷川、ベースは沢田、そしてドラムが僕の4人で「りんご」を結成した。高校一年、12月のことである。

曲はすべて石垣が書いたオリジナル曲だった。彼の書く曲は、当時流行ったジュンスカイウォーカーズやブルーハーツを思わせるような良い曲が多かった。
歌はヘタウマだがパワーと勢いに満ちていた。
谷川も一曲ヴォーカルを取った。やつれたダミ声に一片の味があった。
沢田はこの時が初対面で、口数が少なく感情を表に出さないタイプだが、安定したベースを聞かせ、任されたパートをしっかり弾きこなした。
一番の問題はドラムの男だ。リズムはもたつくわ、ハイハットを叩く手が途中でつるわ、シンバルを空振りするわ、少年ジャンプの猛特訓もまるで生かされていなかった。
「これはオリジナルだから、俺が元祖だ」
毎回違うフレーズを叩く僕の決まり文句だった。
やがてライブの日がやってきた。僕はスプレーで髪を青く染めた。
8ビートのバスドラム「ドン・ドドン」がマスターできず、すべての曲を4分音符の「ドン・ドン・ドン・ドン」で通した。
それを受けて石垣はメンバー紹介で「バスドラ一直線男、みつる」と叫んだ。
バンドのテーマソング「りんご」は
「りんごりんごりんごりんごりんご!」(コードはG7→C)
と1秒で終わる曲で、そのくだらなさに会場が沸いた。
アンコールまで10曲、初ライブはまずまずの成功を収めた。
後にりんごは2回ライブを行い、高校2年の夏、解散した。

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