4.バンド遍歴其の二〜6畳間の夢
りんご解散後間もなく、僕は石垣と共に新たなバンド結成へと動き始めた。
そして2ヵ月後、ベースには石垣の友人の室賀、ヴォーカルにはラグビー部の横田が加わり「反吐」が結成された。
室賀はベース未経験だったがやたらと気合いが入った、熱い男だ。
また横田はラグビー部の硬派なイメージとは対称的に、とてもノリの軽い男で、そんなところが魅力であった。声もデカく、ヴォーカリストとしての素質もあった。
ラグビー部での毎日の練習で真っ黒に日焼けした横田の事を歌った「ヨコタ・ニグロ」など数曲のオリジナルも完成した。
しかしなかなか練習に全員が集まれないなどの事情から、わずか3ヵ月足らずで解散となってしまった。
その後高校時代にバンドを組むことはなかったのだが、動かずにはいられなかったのだろう、自分でオリジナル曲をこつこつと作り始めていたのだ。
僕は実家暮らしでありながら、下宿のような生活を送っていた。
元々わが家は借家で、建物の1階は家族が生活する2DK、そして2階部分は下宿部屋のような構造だった。まん中に一本廊下があり、その両側に3つずつ合計6部屋あった。
そのうちのひとつ、6畳の部屋を自分の部屋として使っていた。
1階玄関の横に階段があり、家族と顔を合わすことなく2階へ上がれてしまうものだから、本当に下宿の気分だ(ごはんだけはしっかり食べさせてもらったから、寮といってもいいかも)。
そんな建物の造りから、たくさんの友人が気楽に遊びにきた。
開けっ放しにしておくと近所の猫が上がり込むこともしばしばで、廊下で猫とすれ違う光景も珍しくなかった。
週に4、5日は顔を出す男がいた。石原という小学校からの同級性だ。
高校は別々だったが、勉強が嫌で学校をサボり、昼間フラフラして夜になると部屋へやってくるのだ。
石原はいつもバイクでやってきた。家の前にバイクが止まると、その音だけで石原だと分かった。
ノックもせず部屋のドアを開けると「よう」と出っ歯を見せて笑顔で入ってきた。
僕が学校から帰ってくると、すでに部屋で待っている事もしばしばあった。
自分で買ってきたお茶とおにぎりをたいらげ、僕が帰ってくるまで寝ているのだ。
半居候といったところだ。
彼もまたバンドを組んでいた。目と耳が隠れる程伸ばした髪に黒の皮ジャン、黒のブーツという姿で、ロカビリーバンドのドラマーだった。
部屋では二人でドラムスティックを持って正座して向かい合い、膝をタイコにして8小節ずつのドラムソロを回しあった。
気がつくと1時間経っていて、太腿がまっ赤に腫れていたこともあった。
彼は何でもリアクションが大袈裟で、その赤くなった膝を指でつつくと「アイター」といちいち大きく飛び上るのだ。
その石原と一時期よくデモテープを作った。
と言ってもそんな立派なものでなく、家にあった録音機能付きのウォークマンを使っていたのだ。
オリジナル曲で、これまた真面目なものは一つもなく、その場で作った曲にその場で思いついた歌詞を載せた。
歌とギターは僕がやって、時々石原がコーラスや合いの手を入れた。
「牧場」は最初に作った曲だ。
「モーと鳴く牛も メーと鳴く羊も みんなみんなみんな友達さ」
「走れ牛にエサをあげる時間だ」
録音はすべて一発録りで行った。ワンコーラスで終わるものがほとんどで、どれもアホな曲ばかりだった。
また、一曲歌い終わるたびに一発ギャグを言ってからテープを止めた。
歌のエンディングで「ここでフェードアウト」と、マイクから遠ざかり、部屋の外に出たりした。
みるみるうちに、60分テープにはアホな曲たちが40曲以上も収められた。
このテープを他人に聴かせたことは一度もない。
大学に入ってからもバンドをやりたかったのだが、意外にも周囲に音楽をやる人間が少なかったりして、バンドを組むには至らなかった。
一度だけ雑誌の「BANDやろうぜ!」のメンバー募集コーナーに告知を載せたことがあった。「サザンのコピーやりたい人募集」に一通の返事も来なかった。
他の募集は「Xのコピーやりましょう」とか「BACK−TICK大好き!」などのヴィジュアル系ばかりで、雑誌のキャラクターからしてサザンのコピーバンドの告知に反応がないのは載せる前から明らかだった。
それでも何とかしてバンドを組みたくて、ワラをも掴む思いだったのだ。
その頃のバイトの友人に数少ない音楽仲間で、山田という男がいた。ローリングストーンズをこよなく愛し、音楽志向は主に60年代から70年代の洋楽と、僕に共通するものが多かった。
またレゲエも好きで、バイトにはたいていボブマーリィが大きくプリントされたTシャツを着てきた。
ちなみにこの山田は昨年結婚し、ハネムーンには彼の希望でボブマーリィの生まれ故郷であるジャマイカに行ったのだ。
「新婚旅行にジャマイカかよ!」まわりの友人もたいそう驚いたが、一番気の毒なのは奥さんだ。本当ならヨーロッパやアメリカやオーストラリアで優雅に楽しみたかったのに、有無を言わさずジャマイカ行きのチケットを渡されたのだ。
しかも彼は「旅行までにこれを読んでジャマイカを勉強しなさい」と、ジャマイカの歴史や風土がこと細かに書かれた「ジャマイカンブルー〜青い海の楽園〜」という350ページもある本を彼女に渡した。
彼女は自分のためというよりもむしろ彼のために一生懸命読んでいたが、だんだん疲れが出たようで、それが原因なのかついにマリッジブルーになってしまった。そんな彼女を僕たちはジャマイカンブルーと呼んだ。
それでも実際ジャマイカは楽しかったようで、新婚旅行後間もなく妊娠が発覚し今年5月に元気な男の子が生まれた。僕たちはその子をジャマイカンベイビーと呼んだ。
話を戻そう。そんな山田も高校時代にはベーシストとして、二つのバンドを掛け持ちでやっていた。
「ビートルズやストーンズを中心にしたユニットを結成しよう」
という話になった。「バンド」と「ユニット」の違いはよく分からなかったが、何となくそう言っていた。
「他の誰にも負けないようなすごい名前がいい」
そんな山田の思いに応えて、僕は「ウルトラダイナマイト」と命名した。山田は嬉しそうに小刻みに笑った。
「うーん何だか分からないけれどすごい名前だ」
練習はほとんど山田の部屋で行われた。10畳もある広い部屋には大きなステレオがあり、足元には棚に入りきらなかったCDやビデオが山のように積まれていた。
僕がギター、山田がベースを持ち、CDを聞きながら練習に励んだ。
とにかく気合だけは入っていたのだが、ひとつだけ僕の練習を妨げるものが山田の部屋にあった。
扉のところに「かとうれいこ」の水着ポスターが貼ってあったのだ。
どうも目線が奪われてしまい、はがして持って帰りたい衝動を抑えるのに必死であった。
残念ながらこの「ウルトラダイナマイト」も、二人の都合がなかなか合わず、ライブまでには至らなかった。
とにかく、何か音を出さずにはいられなかった時期だったと思う。
次ページへ
ホトトギスTOPへ