第一章
駆け抜ける音楽青春時代
1.サザンオールスターズを聴けば
男の子は思春期を迎えると、異性を意識しはじめる。
女の子にもてたいとか、かっこよく見せたいとか思い、服装や行動や考え方が変化していくものです。
環境が変わると同時にその変化が表れる人もいるわけで、中学から高校へ進学するときのいわゆる高校デビューなんてのもそのひとつで、たぶんこの時期にひと皮むけた人というのは世の中に少なくないでしょう。
僕は中学では3年間バレー部、3年生ではクラス委員を務めていたごく普通の子。
暗くはないが、目立って明るい子でめなかったと記憶する。
そんな少年の心の底では「高校になったら、ひと皮もふた皮もむけてやる」と野心と情熱が燃えたぎっていたのだ。
春、高校に進学しクラスで多くの仲間ができたものの、その内面はひと皮どころか半皮ほどもむけてない仮性状態な自分がいるのだった。
2年になりさらに新しい仲間が増えた。席が隣同士になった加藤という男と早弁をしたり、授業中も「あの子がかわいい」「この先生が美人でいい」など、一日中女の話題で盛り上がっていた。
うちの学校は進学校で、大学進学に命を燃やす熱き教師が多くいた。
修学旅行と称して長野県の野尻湖畔の施設まで連れて行き、一日何時間も勉強させるのはうちの高校ぐらいだろう。
その修学旅行でも、僕と加藤は相変わらずだった。
その頃クラスの一番人気の女の子、祐子ちゃんの事を加藤は好きになっていた。
「修学旅行中に告白するんだ。そして祐子ちゃんと一緒に毎日帰るんだ」
消灯後の部屋で加藤は、まるで赤い布を目の前にした闘牛のように息巻いていた。
そんな加藤を僕は応援した。僕は手元にある枕を祐子ちゃんに見立てて優しく抱きかかえながら
「おー、祐子ちゃん。うーん祐子ちゃん。うおぉー祐子ぉ、バックドロップ!」
と激しくブリッジした。それが効いたのか、修学旅行明けに告白した加藤は見事振られた。
「サザンオールスターズっていいよー」
数日後、未だ傷心癒えぬ加藤は俺に言ってきた。突然何を言い出すのだろうと僕は思った。
「切ないっつーか、胸に迫るっつーか、今の俺の気持ちにぴったり」
としきりにサザンオールスターズを僕に勧めてきた。
当時僕は音楽雑食型というか、ひとつのアーティストにこだわらず、オリコン上位にランクインされるような曲や自分が何となくいいなと思った曲をレンタルして聴くという、アーティスト単位よりも曲単位で聴いていた。
音楽そのものは昔から大好きで、どんな学校の勉強よりも音楽の授業が好きだったし、その当時はギターも「明星」付録のヤンソンを見てあらゆる曲を弾きまくっていた頃だ。
仮性人の僕にサザンオールスターズというアーティストは敷居の高い大人の音楽という勝手なイメージが何故かあった。
あくまでイメージだけで、実際にはCMなどで流れてくるのを少し耳にした事がある程度で、きちんと聴いた事は一度もなかった。
僕は加藤から勧められるうちに、こんなことを思った。
(サザンを聴いているって言えば女の子にモテるかもしれない)
と同時にむけきらない仮性な心に、どっと血液が流れ込むのが分かった。
「ぜ、是非俺にサザンを聴かせてくれ!」
血走った僕の目を見て加藤は2歩程下がりながら、
「わかった、明日CD持ってくるから」
と言って、翌日4枚組の「すいか」を持ってきてくれた。
それまで1アーティストのアルバムを聴くことがほとんどなかった僕が、その週末はサザンのCDを聴きまくった。
そして翌週には「すいか」のほとんどの曲を歌えるようになっていた。その翌週にはアルバム「ステレオ太陽族」と「人気者で行こう」を買っていた。
一度ハマったらとことん進む性格らしく、どういう事か気がつけばファンクラブにまで入会していた。
これまでファンクラブなど入ったことがないのに、これはよっぽどの事だと自分でも驚いた。
さらにその勢いは留まるところを知らなかった。
ファンクラブ会報の中に「サザンオールスターズ応援団東海支部募集」とあった。
読むとその送り先が、なんとうちのすぐ近所だったのだ。そしてすぐさま封筒に熱の篭った手紙を5枚も同封して送った。
この時のエネルギーには今でも驚かされる。
まったく無欲のパワーだ、と言いたいところだが、サザンを聴いた理由が「モテたいから」の僕はどう考えても無欲とは正反対だ。
数週間後の日曜日、名古屋の芸術創造センターでミーティング(といっても、その名のとおり顔合わせ会だ)があり、僕は部活をサボって出掛けた。
会議室といわれる部屋の中には15人ぐらい、20〜30歳半ばの男女が集まっていた。僕と同世代は一人もいなかった。
17歳の僕にとって、そこにいた人はみんな大人に見えた。
「やっとこのレコード見つけちゃったよ」「このテレカついに手にいれちゃった」まだまだ初心者の僕にはとてもついていけない話題が飛び交っていた。
「えらいとこに来てまった」と名古屋弁で心の中でつぶやいた。
高校生活では音楽の授業以外の勉強は落ちこぼれだった。
定期テストでは学年順位が555人中553番を取り、親と共に校長室に呼び出されたこともあった。
そんな僕でも大学には行きたいと思っていたので、少しずつ真面目に勉強をやり始めた。
やがて僕にも受験勉強の波が押し寄せた。
その頃東海支部の支部会は2ヶ月に1回定期的に行われていた。
「受験勉強が忙しくなって支部会に参加てきなくなるかも…」
まだ入ったばかりで主立った参加もしないまま休んでしまうことを心苦しく思い悩み、支部長の増田さんや山田さんに相談した。
二人は僕を励ましてくれた。
山田さんは「私は推薦で楽して入っちゃったから受験の苦しさを知らないけど応援してるから頑張れ。そして合格したらみんなで一緒にコンサートに行こう」と手紙をくれた。
とても嬉しくて力が湧いてきた。おかげで受験勉強に集中することができた。
「長い一生の中で約一年間のほんの短い我慢だ、その後めいっぱい楽しめばいい」
そう自分に言い聞かせて、必死に机に向かった。
そして結果、8つ受験したうちの最後の一校に合格することが出来たのだ。
その春大学生活のスタートと同時に、東海支部にも本格的に参加し始めた。
「今度の今度こそもうひと皮むくぞ」
環境の変化と共に、気持ちを新たにする僕がいた。